自身の倫理性①

「人の道徳性や技術、行為などは習慣づけによって決められる。」

古代ギリシャの大哲学者、万学の祖とも呼ばれるアリストテレスの言葉だ。

 

「哲学者が好きな哲学者」でランキングを作るなら、どんな集団に聞いたとしても彼はtop10には必ず入るだろう。それくらいの超有名人物だ。

 

哲学の歴史は3000年弱くらいだと思うが、その間に西洋の哲学で語られてきたことは、彼か彼の師であるプラトンが既に語ってしまっている、と言われるほど。

 

冒頭の格言は、アリストテレスの著書である『二コマコス倫理学』で語られたものの要約・意訳である。この書で語られるのは、人の行動であったり精神の動きであったりは、すべて習慣づけによって決まる、ということである。

 

土壇場で勇気を発揮するためには、普段から勇気を振り絞って行動しなければならない。大事な時に人に優しくするためには、普段から優しく人に接さねばならない。何事も習慣づけが大事なのである。

 

逆に、重要な場面で適した行動がとれなかったとしても、それは習慣づけ、つまり訓練が足りなかった、とされる。それはその人が悪いヤツというわけでもなく、バカというわけでもない。ただ習慣づけが足りなかったのだ、恥じることはない。というのがアリストテレスの主張だ(きっと)。

 

 

長くなってしまったが、ここまでは前置きである。ここからが本題だ。

結論から言えば、「私には習慣づけが足りなかった」という話をしたい。

 

 

私は普段から倫理的な人間であろうと心掛けている。

 

レジの人をはじめとするどんなスタッフさんにも丁寧に接するし、小銭のお釣りが出たときはほとんど募金する。運転中だって必ず道は譲りまくるし、免許を取ってから無事故無違反どころか法定速度を超過したこともない。バスの席に至っては譲るどころか全く座らないほどだ。自分で言うのもめちゃくちゃ恥ずかしいけど。

 

どんな相手にも優しく接し、立派な大人であろうと意識している。カントに言わせれば「ずっと幸せである必要はない、でも生きている限りは立派に生きなければならない(It is not necessary that whilst I live I live happily; but it is necessary that so long as I live I should live honourably.)」のである。

 

自分自身を嫌っている私だが、唯一そんな所はちょっとだけ好きだったりする。そんな自分の誇れる箇所が、最近ある出来事がきっかけに、少し揺らいでしまった。

 

 

1回目は今年の年始、2回目はさっきだ。

 

 

1回目は、海外へ引っ越す友人のために、送別会で北海道一の歓楽街であるすすきの(すすきの)へ行った時の話だ。

 

あまり都会に来ることがないので浮かれていた私は、予定よりも大分早くホテルを出て街を散策していた。北海道の冬は、それはもう厳しいが、降る雪とネオンのコンビネーションがとても良い感じだった。

 

ぷらぷらしていると、杖を掲げた男性が道の真ん中に立っていた。どこで得た知識か覚えてはいないが、”杖を両手で持って掲げている人は、手助けを求めている目の不自由な人だ”ということを知っていたので、私は勇気を出して話しかけてみた。

 

話を聞いてみるとどうやら道が分からなくなってしまったらしく、それも「ゲイバーに行きたい」ということだった。面白い状況で草、とノリノリで案内をすることを決めた。

 

といっても私はそこに土地勘があるわけではないので、まずは地図アプリを使用した。ただ、その方(以後Aさんと呼びます)の言う店名を入力してみても、まったく引っかからない。

 

次は聞き込みで、無料案内所に一緒に行って話を聞いてみた。こういった事情に詳しくはないが、どうやら最近はゲイバーの案内先が激減しているらしく、無料案内所の人も紹介できないという。

 

次は酒屋さんへ行くことになった。バーにお酒を卸している酒屋さんなら知っているかも、ということを案内所のおじさんが言っていたためだ。しかし、そこでもAさんの言う店はわからなかった。ただ、代わりとしてニューハーフのショーパブ?をおすすめされたので、一緒に行く(私は入り口まで)ことにした。

 

目に障害のある方のエスコートについては知識がなかったので、とりあえず私が見えていること(段差がある・ちょっと滑りやすそう・もうすぐ信号なので止まる、など)を共有しながら、肩を支えて歩いた。私は最善を尽くした。

 

ここまで実に1時間超である。寒さ厳しい1月の北海道で、なおかつ完全徒歩だ。さすがにちょっと疲れる。

 

いざ最終地点に到着した時の私は、どのようにかっこよくお礼を断ろうか、なんて考えていた。だが、Aさんが言ったのは「ありがとうございました」だけだった。

 

断っておくが、私は決してお礼目的であったわけでもなく、何かしらの見返りを求めたかったわけでもない。でも私はそう言われた瞬間、ほんの少しだけ、本当にちょっとだけ不快感を覚えてしまった。「あれ?もっとなんかあるんじゃない?」みたいな感じで。

 

だからってその感情をAさんに伝えるわけでもなく、普通にそこで別れたが、遅れていく送別会までの間に、私はいろいろなことを考えさせられた。

 

 

というのも、人助けをするときに見返りをもとめるべきではない、ということは理解している。今回の場合も、そもそも私から声をかけたのであり、そこで何か感謝の言葉以上のことを求めるのはお門違いである。それは十分に分かっていたのだ。

 

でも、実際私はあの瞬間、憤りにも似た不快感を覚えてしまった。その事実に私は失意した。自分はなんて不道徳で、倫理性のかけらもない人間なのだろうか、と。

 

あの瞬間の私は、分かっていなかったのである。想像力が欠如していたのである。目の不自由な方の世界が。

 

目の見えない(Aさんはおそらく全盲だった)ということがどれだけ不自由で怖いか、目をつむれば誰でもわかる。そのような方が生きていくためには、おそらく様々な場面で手助けが必要だと思う。生活の一部に、前提として他者の補助が組み込まれていたとしても不思議じゃない。

 

そんな状況で助けてくれた方全員にお礼をするわけにはいかない。もたない。というか、補助される方にとっては”生活“なのだから、自分がただ生活をしている限り、常に周りに”最大限感謝”し続けなければならないなんて、そんな生き方はしんどいと思う。

 

そういうことに頭が回っていれば、そういう習慣づけができていれば。あの瞬間に不快感を覚えることはなかったかもしれない。

 

私の倫理性なんてそんなものだったのだ、万能感の抜けないガキのそれだった。

私の誇りは地に堕ちた。

 

 

2回目は起きてからにしよう。