自身の倫理性②
〇前回の振り返り
・アリストテレスは「習慣づけ」こそが、人間の行動を決定づけるのだと言った。
・私は自身が倫理的な人間であると考えていた。
・目の不自由な方をエスコートした際に、感謝の言葉のみで終わったことになぜか不快感を抱いてしまった。
(つづき)
2回目は、昨日日帰り温泉旅行から帰って、漫画喫茶で漫画を満喫していた時のことだ。
作者さんにお金を落とせなくなるのは心苦しいが、ドリンクバー付きでソフトクリームも食べ放題、スープも飲み放題な点に惹かれ、漫画喫茶で過ごすひと時は私のちょっとした贅沢として成立していた。
その時の私は、あまり長居する予定もなかったため、オープン席(指定席だが、部屋のようには囲われていない席)を利用していた。
2時間ほど漫画を楽しんでいたところ、隣に新しくお客さんが座った。
直接的な表現になってしまうが、非常に臭いがきつい人で、ほとんど鼻で呼吸することを許さないレベルだった。
私は多大な不快感を覚えた。「公衆の場でこの臭いは犯罪」「もはやテロ」「早く帰ってくれないかな」なんてことを考えてしまったため、私は退店を決意した。
しかし、席を立つ瞬間にその人の姿を確認すると、これも直接的な表現になってしまうが、ホームレス然といった風貌の人だった。
会計を済まし、家に帰るまでの間、私はまたいろいろなことを考えた。
私はなんて愚かな人間なのか、と。
確かに、臭いや味など人間の五感の反応は、あくまでそれぞれの感性であり、どのような反応をしても仕方がないと思う。「まずい」「くさい」「きつい」「痛い」「うるさい」など、どんな反応を脳に伝達しても、それは生理現象であり善悪は関係ない。
しかしそれでも、「不快感が全身に広がったとしても、その原因を敵視してもよいか」は別問題である、と私は思う。
というのも、私が思うに、臭いに不快感を覚えた瞬間の私は、やはり想像力が欠如していたのである。
「においがきつい」ということは「洗っていない」ということであり、もしかしたらそれは、「洗うことができない事情」「洗わない事情」があるかもしれない、ということは容易に想像できることだ。
例えば、家がなく満足に体を洗うことができない、お金がなくて服を洗うことができない、障がい等々により臭いを感じることができず自分の臭いに無頓着である、などなど、いろいろなことが考えられる。
こんなことに衝撃を受けている私を不思議に思うかもしれないが、自身の感性をもとにして相手の人間性を否定するような考え方をするのは、やはり危険なことだと思う。
変な服装をしている、とても騒いでいる、おいしくない料理を出す、力が強くて痛い、ひどい臭いをしている。日常の場面でそういう反応をすることはおそらく多い。それは「印象」と呼ばれるものかもしれない。「印象」に気を配れない人はしょうもない人間だ、という言説にも一理ある。しかし、やはり特別な事情をはらんでいる可能性は捨ててはいけないと思う。
極端なことを言えば、サッカー好きの人が、サッカーの誘いを断った両足の無い人に対し、「ダメな奴だ」と考えているのと同じだ。そんな滅茶苦茶なことは到底許されないだろう。
このように自分の感性や、感情の動きによってのみ判断を下すことは、「直観主義」と呼ばれる。倫理の世界では、この「直観主義」はあまりよろしくない。
道徳法則を無視し、合理性のない判断を下すことは、理性的な人間とは真逆の立場にいることになる。
私は、自分の嗅覚をもとに、隣にいる人間の人間性を否定したのだ。不道徳極まりない。
私の誇りは、やはり地に堕ちた。
③に続く
自身の倫理性①
「人の道徳性や技術、行為などは習慣づけによって決められる。」
古代ギリシャの大哲学者、万学の祖とも呼ばれるアリストテレスの言葉だ。
「哲学者が好きな哲学者」でランキングを作るなら、どんな集団に聞いたとしても彼はtop10には必ず入るだろう。それくらいの超有名人物だ。
哲学の歴史は3000年弱くらいだと思うが、その間に西洋の哲学で語られてきたことは、彼か彼の師であるプラトンが既に語ってしまっている、と言われるほど。
冒頭の格言は、アリストテレスの著書である『二コマコス倫理学』で語られたものの要約・意訳である。この書で語られるのは、人の行動であったり精神の動きであったりは、すべて習慣づけによって決まる、ということである。
土壇場で勇気を発揮するためには、普段から勇気を振り絞って行動しなければならない。大事な時に人に優しくするためには、普段から優しく人に接さねばならない。何事も習慣づけが大事なのである。
逆に、重要な場面で適した行動がとれなかったとしても、それは習慣づけ、つまり訓練が足りなかった、とされる。それはその人が悪いヤツというわけでもなく、バカというわけでもない。ただ習慣づけが足りなかったのだ、恥じることはない。というのがアリストテレスの主張だ(きっと)。
長くなってしまったが、ここまでは前置きである。ここからが本題だ。
結論から言えば、「私には習慣づけが足りなかった」という話をしたい。
私は普段から倫理的な人間であろうと心掛けている。
レジの人をはじめとするどんなスタッフさんにも丁寧に接するし、小銭のお釣りが出たときはほとんど募金する。運転中だって必ず道は譲りまくるし、免許を取ってから無事故無違反どころか法定速度を超過したこともない。バスの席に至っては譲るどころか全く座らないほどだ。自分で言うのもめちゃくちゃ恥ずかしいけど。
どんな相手にも優しく接し、立派な大人であろうと意識している。カントに言わせれば「ずっと幸せである必要はない、でも生きている限りは立派に生きなければならない(It is not necessary that whilst I live I live happily; but it is necessary that so long as I live I should live honourably.)」のである。
自分自身を嫌っている私だが、唯一そんな所はちょっとだけ好きだったりする。そんな自分の誇れる箇所が、最近ある出来事がきっかけに、少し揺らいでしまった。
1回目は今年の年始、2回目はさっきだ。
1回目は、海外へ引っ越す友人のために、送別会で北海道一の歓楽街であるすすきの(すすきの)へ行った時の話だ。
あまり都会に来ることがないので浮かれていた私は、予定よりも大分早くホテルを出て街を散策していた。北海道の冬は、それはもう厳しいが、降る雪とネオンのコンビネーションがとても良い感じだった。
ぷらぷらしていると、杖を掲げた男性が道の真ん中に立っていた。どこで得た知識か覚えてはいないが、”杖を両手で持って掲げている人は、手助けを求めている目の不自由な人だ”ということを知っていたので、私は勇気を出して話しかけてみた。
話を聞いてみるとどうやら道が分からなくなってしまったらしく、それも「ゲイバーに行きたい」ということだった。面白い状況で草、とノリノリで案内をすることを決めた。
といっても私はそこに土地勘があるわけではないので、まずは地図アプリを使用した。ただ、その方(以後Aさんと呼びます)の言う店名を入力してみても、まったく引っかからない。
次は聞き込みで、無料案内所に一緒に行って話を聞いてみた。こういった事情に詳しくはないが、どうやら最近はゲイバーの案内先が激減しているらしく、無料案内所の人も紹介できないという。
次は酒屋さんへ行くことになった。バーにお酒を卸している酒屋さんなら知っているかも、ということを案内所のおじさんが言っていたためだ。しかし、そこでもAさんの言う店はわからなかった。ただ、代わりとしてニューハーフのショーパブ?をおすすめされたので、一緒に行く(私は入り口まで)ことにした。
目に障害のある方のエスコートについては知識がなかったので、とりあえず私が見えていること(段差がある・ちょっと滑りやすそう・もうすぐ信号なので止まる、など)を共有しながら、肩を支えて歩いた。私は最善を尽くした。
ここまで実に1時間超である。寒さ厳しい1月の北海道で、なおかつ完全徒歩だ。さすがにちょっと疲れる。
いざ最終地点に到着した時の私は、どのようにかっこよくお礼を断ろうか、なんて考えていた。だが、Aさんが言ったのは「ありがとうございました」だけだった。
断っておくが、私は決してお礼目的であったわけでもなく、何かしらの見返りを求めたかったわけでもない。でも私はそう言われた瞬間、ほんの少しだけ、本当にちょっとだけ不快感を覚えてしまった。「あれ?もっとなんかあるんじゃない?」みたいな感じで。
だからってその感情をAさんに伝えるわけでもなく、普通にそこで別れたが、遅れていく送別会までの間に、私はいろいろなことを考えさせられた。
というのも、人助けをするときに見返りをもとめるべきではない、ということは理解している。今回の場合も、そもそも私から声をかけたのであり、そこで何か感謝の言葉以上のことを求めるのはお門違いである。それは十分に分かっていたのだ。
でも、実際私はあの瞬間、憤りにも似た不快感を覚えてしまった。その事実に私は失意した。自分はなんて不道徳で、倫理性のかけらもない人間なのだろうか、と。
あの瞬間の私は、分かっていなかったのである。想像力が欠如していたのである。目の不自由な方の世界が。
目の見えない(Aさんはおそらく全盲だった)ということがどれだけ不自由で怖いか、目をつむれば誰でもわかる。そのような方が生きていくためには、おそらく様々な場面で手助けが必要だと思う。生活の一部に、前提として他者の補助が組み込まれていたとしても不思議じゃない。
そんな状況で助けてくれた方全員にお礼をするわけにはいかない。もたない。というか、補助される方にとっては”生活“なのだから、自分がただ生活をしている限り、常に周りに”最大限感謝”し続けなければならないなんて、そんな生き方はしんどいと思う。
そういうことに頭が回っていれば、そういう習慣づけができていれば。あの瞬間に不快感を覚えることはなかったかもしれない。
私の倫理性なんてそんなものだったのだ、万能感の抜けないガキのそれだった。
私の誇りは地に堕ちた。
2回目は起きてからにしよう。
地獄とは自分のことである
フランスの哲学者サルトルの言葉に、「地獄とは他人のことである(L'enfer, c'est les autres.)」という言葉がある。
哲学者としての彼は、私は別に好きでも嫌いでもない。別に好きでも嫌いでもない哲学者を最初のブログの書き出しに用いるのは、なんだかとても居心地が悪いような気がするが、今心に浮かんだのが彼の言葉だったというだけである。
私は「地獄とは自分のことである」と思う。
というのも、"私"は世界人類の中で、"自分"という人間のことが最も嫌いである。物心二元論だとか、心身二元論だとか、現象学だとか、構造主義だとか、実存主義だとか、眠たい考えはいったん置いといて。
私は自分が嫌いだ。
自分のことを一番知っているのは自分なのだから、当然ながら嫌いな面を知っているのも、自分がトップランナーである。哲学や倫理が好きで勉強してきたかいもあって、本来すべき生き方と、いまの自分の生き方との相違が、私の日常を地獄にしている。
なぜ私は自分のことが嫌いなのか。それは、いつか語られる、かもしれない。ここではない。
自分のことが嫌いである私、その生活の最大の障壁は、「他人のことも本気で好きになれない」ということである。
まず、誠実なセールスマンの心情を想像してほしい。彼が手にする"商品"は、客観的に見て大変粗悪なものであり、主観的に見ても良い点がない。もしくは、"ほかの商品"よりも優れているところがない。とするならば、誠実な彼はその"商品"を客に売りつけるだろうか。
少なくとも、私の地獄にいるセールスマンは、そんな"商品"を客に売りつけたりはしない。この場合、"商品"とは自分で、客とは恋愛の対象となるような人物である。一方的に他人に好意を持つことはあっても、それを伝えたり、関係を発展させようとは微塵も思えないのである。なぜなら、そんな"商品"は売りたくないからだ。
相手から好意を向けられることに対しても、私の地獄のセールスマンは懐疑的である。
仮に、高価さに見合う品質を誇る商品、平凡な商品、他よりもすべてが劣っている商品があったとする。考えにくければ高級アイス、普通のカップアイス、ただの氷の3つを想像してもらいたい。このとき、「好きなアイスを選んでいいよ」ともし言われたら、あなたはどう考えるだろうか。
多くの人は、自分のお財布状況と相談しながら、高いアイスか普通のアイスかで迷うだろう。ここでただの氷を選ぶのは、アレルギー等特殊な事例を除き、おそらく奇人か変人か中二病患者だ。まともじゃない。
何が言いたいかというと、好きなものを選ぶときに、より劣ったものを選択する人はあまりまともじゃない、と私は考えている。同様に、ありえないほど人間がいる中で、自分という人間を選ぶ人は、まともじゃないように思えてしまうのだ。
「おいしい飲み物買ってきて!」と頼んだのに、ぬるくて量の少ないただの水とか買ってきたらびっくりしてしまう。自分のお金とか任してらんない。
私の嫌いな自分を好きになっている時点で、その人は自分とは相容れない存在に見えてしまうのだ。
好意を向けられたら、なぜ好きなのかをきちんとしたためて学会に提出してほしい。そんなめんどくさいことをさせるわけにはいかないので、好意を向けられるのもあまり得意ではない。
だから、私が本気で好きになるのは、人格を持たぬようなものとなる。
私が他人を好きになるとき、それは人格的な面ではないことが多い。のかもしれない。というかよくわからない。それは例えば、お金をたくさんくれる、顔のパーツが好み、料理がおいしいなどの、自分にとって利益となるようなことだ。
私は倫理学者の端くれなので、好きとは何か、どう好きになるべきか、をいつも考えてしまう。
私の中では、本当の意味で他人を好きになれていないような気がしている。
相手のためにならない私は、相手を好きになるべきではないように思えてしまう。
この好きがもたらすのは、性欲とか食欲などに起因する、他人を手段として消費するような行為なのではないか、と不安になる。
そんな自分が心底嫌になる。
地獄とは自分のことである。
出口なし(Huis clos)、である。