地獄とは自分のことである

フランスの哲学者サルトルの言葉に、「地獄とは他人のことである(L'enfer, c'est les autres.)」という言葉がある。

 

哲学者としての彼は、私は別に好きでも嫌いでもない。別に好きでも嫌いでもない哲学者を最初のブログの書き出しに用いるのは、なんだかとても居心地が悪いような気がするが、今心に浮かんだのが彼の言葉だったというだけである。

 

 

 

私は「地獄とは自分のことである」と思う。

 

というのも、"私"は世界人類の中で、"自分"という人間のことが最も嫌いである。物心二元論だとか、心身二元論だとか、現象学だとか、構造主義だとか、実存主義だとか、眠たい考えはいったん置いといて。

 

私は自分が嫌いだ。

 

自分のことを一番知っているのは自分なのだから、当然ながら嫌いな面を知っているのも、自分がトップランナーである。哲学や倫理が好きで勉強してきたかいもあって、本来すべき生き方と、いまの自分の生き方との相違が、私の日常を地獄にしている。

 

なぜ私は自分のことが嫌いなのか。それは、いつか語られる、かもしれない。ここではない。

 

自分のことが嫌いである私、その生活の最大の障壁は、「他人のことも本気で好きになれない」ということである。

 

 

 

まず、誠実なセールスマンの心情を想像してほしい。彼が手にする"商品"は、客観的に見て大変粗悪なものであり、主観的に見ても良い点がない。もしくは、"ほかの商品"よりも優れているところがない。とするならば、誠実な彼はその"商品"を客に売りつけるだろうか。

 

少なくとも、私の地獄にいるセールスマンは、そんな"商品"を客に売りつけたりはしない。この場合、"商品"とは自分で、客とは恋愛の対象となるような人物である。一方的に他人に好意を持つことはあっても、それを伝えたり、関係を発展させようとは微塵も思えないのである。なぜなら、そんな"商品"は売りたくないからだ。

 

 

 

相手から好意を向けられることに対しても、私の地獄のセールスマンは懐疑的である。

 

仮に、高価さに見合う品質を誇る商品、平凡な商品、他よりもすべてが劣っている商品があったとする。考えにくければ高級アイス、普通のカップアイス、ただの氷の3つを想像してもらいたい。このとき、「好きなアイスを選んでいいよ」ともし言われたら、あなたはどう考えるだろうか。

 

多くの人は、自分のお財布状況と相談しながら、高いアイスか普通のアイスかで迷うだろう。ここでただの氷を選ぶのは、アレルギー等特殊な事例を除き、おそらく奇人か変人か中二病患者だ。まともじゃない。

 

何が言いたいかというと、好きなものを選ぶときに、より劣ったものを選択する人はあまりまともじゃない、と私は考えている。同様に、ありえないほど人間がいる中で、自分という人間を選ぶ人は、まともじゃないように思えてしまうのだ。

 

「おいしい飲み物買ってきて!」と頼んだのに、ぬるくて量の少ないただの水とか買ってきたらびっくりしてしまう。自分のお金とか任してらんない。

 

私の嫌いな自分を好きになっている時点で、その人は自分とは相容れない存在に見えてしまうのだ。

 

好意を向けられたら、なぜ好きなのかをきちんとしたためて学会に提出してほしい。そんなめんどくさいことをさせるわけにはいかないので、好意を向けられるのもあまり得意ではない。

 

 

 

だから、私が本気で好きになるのは、人格を持たぬようなものとなる。

 

私が他人を好きになるとき、それは人格的な面ではないことが多い。のかもしれない。というかよくわからない。それは例えば、お金をたくさんくれる、顔のパーツが好み、料理がおいしいなどの、自分にとって利益となるようなことだ。

 

私は倫理学者の端くれなので、好きとは何か、どう好きになるべきか、をいつも考えてしまう。

私の中では、本当の意味で他人を好きになれていないような気がしている。

相手のためにならない私は、相手を好きになるべきではないように思えてしまう。

この好きがもたらすのは、性欲とか食欲などに起因する、他人を手段として消費するような行為なのではないか、と不安になる。

 

そんな自分が心底嫌になる。

 

 

 

地獄とは自分のことである。

出口なし(Huis clos)、である。